存在は表現である、景色になることは表現ではない、恋愛も
生存は社会に依存するのかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。
この自分の存在は、社会の存在によらずとも、確実に存在するのである。人はこのことに気づかないでいる。
社会性はあるのだが、社会というのが完璧にないと、評されたことがある。むろん、この欠落の自覚は、裏を返せば衿持であって、なぜなら私は、社会生活を営むために生きているのではなく、生きるために社会生活を営んでいるにすぎない。このことをはっきりと自覚しているからである。ソクラテスという人は、もっとはっきりこう言った。
「皆は食べるために生きているが、僕は生きるために食べている」
生存するために生きているのではないのだから、生きているのは生存しているゆえである。私は、社会の存在なんてものを、この自分の存在よりも確実なものだと認めていない。認めていないのだから、社会の存在が私の存在を、どうこうできる道理もない。じつに自由である。人は、何をもって、不自由と不平を言っているのだろうか。
人が、不自由と不平を言っているのは、したがって、社会を認めているからである。社会の存在を自分の存在より確実なものだと、自分から認めているのだから、社会の存在に自分の存在をどうこうされるのは、道理なのである。
池田晶子
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